JHD&C代表対談
ISSUE JHD&C代表対談 第2回 吉村さやか氏 矢吹康夫氏 【ヘアドネーション活動を社会学の観点から考える】
社会学者の吉村さやか氏、矢吹康夫氏とともに語り合いました。
2023/08/26 JHD&C事務局(大阪市)にて
見た目にまつわるさまざまな社会課題について、当事者の視点から研究する吉村さやか氏、矢吹康夫氏。
JHD&C代表の渡辺とは旧知の仲であり、テレビでの共演などを通じて、ヘアドネーション活動の意義や問題点について議論を深めてきました。
対談場所となったJHD&C事務局(大阪市)
日本におけるチャリティの特徴や、当事者にとってウィッグとはどういう存在なのかなど、率直に語り合った対談の様子をお届けします。
研究を始めたきっかけと、現在の研究内容について
-
渡辺:
今日は遠いところをお越しいただきありがとうございます。
吉村さんと初めてお会いしたのは2018年の4月ごろですから、もう6年近いお付き合いになりますね。矢吹さんとは今日初めてお目にかかりますが、以前、オンラインの会合にお招きいただいたことがあります。お二人は調査を通じて出会われて、今では公私ともにパートナーでいらっしゃるのですよね。
お二人とはいつかじっくりとお話ししたいと思っていたので、今回貴重な機会をいただけてとてもうれしく思います。
今日はご自身のことについて、そして社会学の知見を通じてヘアドネーションという活動やウィッグについてどのようにお考えなのか、掘り下げてうかがいたいと思っています。
それではまず、簡単に自己紹介をお願いします。
日本大学文理学部社会学科 助手 吉村さやか氏
-
吉村:
吉村さやかと申します。
日本大学文理学部社会学科で助手をしながら、外見差別について、社会学とジェンダーの視点から研究をしています。今日はどうぞよろしくお願いします。
中京大学教養教育研究院 講師 矢吹康夫氏
-
矢吹:
はじめまして、矢吹康夫と申します。
私は現在、中京大学で教員として障害学について教えています。また15年前から、日本アルビニズムネットワーク※1という団体のスタッフもしています。
もともとはアルビノについて研究していたのですが、それが一段落して、現在は茶髪禁止の校則のことや履歴書の写真が合否に関わることなど、外見に基づく差別について研究しています。今日はよろしくお願いします。
-
渡辺:
先日刊行された吉村さんの著書『髪をもたない女性たちの生活世界 その「生きづらさ」と「対処戦略」』(生活書院)※2を拝読しました。
女性の髪はジェンダーのシンボルとみなされ、女性が髪を失うことはタブー視されやすい。そんな社会で、先天的・後天的な病気や怪我によって脱毛した女性がどう生きてきたのか、さまざまな当事者へのインタビューによって詳述されていますね。
私も活動の中でレシピエントをはじめとした当事者とお話しをする機会があり、共通点が多いと感じましたし、ぜひ多くの方に読んでほしいと思いました。
-
吉村:
ありがとうございます。私が研究を始めたきっかけは「女性にとって、髪の毛とはなんなのか?」と疑問を抱いたことでした。
私は小さい頃から体が弱く、また小学校に入ってすぐに髪の毛が抜けて、ずっとかつらをかぶって過ごしました。親の影響で私自身も「隠す」ことがメインの人生を長く送ってきたので、他者や社会とのつながりづらさを感じていました。
大学生の時に1年ほどフランスに留学したのですが、フランスの人は職業アイデンティティみたいなものに縛られず自分がしたい髪型や髪色をしていて、“集団の中の私”よりも“個人”を重視する文化があると感じ、すごく惹かれました。
そこで日本独自の文化を相対化した時、変だなと気づきました。日本人は黒髪・ストレートが多数派ですが、留学当時の2000年代初頭は茶髪や盛り髪が流行っていました。「よい」とされるものに群がっていくような国民性に違和感を覚え、私がいる環境ってなんだか不思議だなと感じました。
帰国後、大学院で社会学がご専門の先生に出会い、どうして髪について研究したいのかと問われ、私には髪の毛がないからだと思いますと答えました。
その先生との対話を通して、脱毛症の当事者の会※3の存在に気づかされました。私は髪の毛がないことを“ないことにしてきた”時間が長かったので、その時まで脱毛症という言葉も知らなければ、自分が当事者だとも思っていなかったのです。
2012年に、当事者とそのご家族を対象とした聞き取り調査を始めました。一生懸命治療をされている方や、治療はやめ、ウィッグ(義髪・かつら)をかぶっておしゃれを楽しむ方など、いろいろな当事者がいることに気づきました。その過程で、脱毛症やあざやアルビノなど、外見が「普通」ではないことによって生じる困難などの解消を目指して活動している団体※4があることも知りました。
先ほどご紹介くださったように、矢吹とは2013年に当事者の会での調査を通して出会いました。私も矢吹も、自分を説明する言葉を持たずに成長していて、何にイライラしているのか、何がつらいのかをうまく言葉にできなかったのがつらかったんですね。同じような症状を持った方と、普段感じるモヤモヤみたいなものを語り合うことによって、自分が何にイラついているのかが言語化できるようになったことで、自分でも理解できるようになりました。私と矢吹は、そのプロセスがすごく似ていると思います。
-
渡辺:
矢吹さんが執筆された『私がアルビノについて調べ考えて書いた本 当事者から始める社会学』(生活書院)※5、そして『現代思想』(青土社)2023年9月号に寄稿された論文を拝読しました。矢吹さんがアルビノの研究をしようと思ったきっかけは、ご自身の経験からなのでしょうか。
-
矢吹:
そうですね、実は私自身、20歳になるまでは「アルビノ」ということも知らなかったのですが、特に問題なく生きてこられた実感があります。大学で研究を始めたのも「自分のことだし調べて卒論を書いてみよう」という程度で、使命感に駆られたとかそういうことではありませんでした。
でもインターネットで「アルビノ」と入力してみても、出てくるのは熱帯魚や爬虫類、げっ歯類ばかりで。今はそうでもないですが、2000年代初めは人間のアルビノがいるなどと思えないような検索結果でしたし、学術研究の分野でも生物学的な観点による文献ばかりでした。
それが不満だったので、自分自身のことを言語化して説明してくれるものを求めてこれまで研究を続けてきました。2000年代の前半ぐらいから他のアルビノの方と集まる機会があって、それをきっかけにインタビューを始めたという感じですね。
研究を始めるにあたっては、イギリスのセルフヘルプグループが出版した『Real Lives』※6という本の影響を大きく受けました。12人のアルビノ当事者のライフストーリーがまとめられた本で、それにならって、私もまず当事者たちへのインタビュー調査を行うことにしました。
身体的な特徴によって不本意な対応をされた時に、自分に原因があるのだからと我慢したり沈黙したりするのではなく、社会的な問題として言語化するための新しい視点を与えてくれたのが障害学だと思っています。
-
渡辺:
矢吹さんのご本に、アルバイトの採用面接で髪の毛が黒くないことを理由に断られたというエピソードがありました。基本的人権である表現の自由が制限されていることがよくわかります。
アルビノの方の髪色が「普通の黒髪」でないことが校則に違反するから黒く染めてきなさい、と先生から言われるとよく聞きます。同じ校則で髪を染めてはいけないとも規定されていますから、矛盾していますよね。
-
矢吹:
一律で決めたいんでしょうね。話し合って、生徒が納得できるところに着地しようというやり方は、多分すごく時間がかかります。そのほうがいいとわかっているんだろうけど、一律で決めると何も考えなくて済むから楽なのだろうなと思いますね。これは学校の先生が悪いわけではなく、学校の先生たちの労働環境がそもそも問題だと思うのですが。
-
渡辺:
社会のルールとか、みんながやっているからとか常識だからというのを取っ払って考えた時に、そういえばなんでこれダメなんだろうと考えると、何が正しいのかわからなくなる時がありますね。
自分と違うものや多数派でないものを理解できないと恐怖を覚えるのかなと感じます。
- ※1日本アルビニズムネットワーク
- アルビノの当事者、そしてそのご家族を支援するために誕生した団体。アルビノ当事者や家族のサポート、アルビノに関する正しい知識を社会に広める活動を行う。
- ※2『髪をもたない女性たちの生活世界 その生きづらさと対処戦略』(生活書院)
-
「“女性に髪がないこと”を当人自身がどう捉えているか、(略)発症年齢とその年代もさまざまな当事者女性たちの“生きられた経験”を丁寧に聞き取り、収集した資料を用いて再構成したライフストーリーの詳細なる検討を通して、髪を持たない女性たちの“生きづらさ”の具体的内実とそれを軽減/解消しうる対処戦略を明らかに」(序章より引用)することを目的とする書籍。
2023年9月発行。 - ※3脱毛症の当事者の会
-
特定非営利活動法人 円形脱毛症の患者会。
病気を知る、病気の一般周知、患者同士の交流を目的として活動する団体。 - ※4外見が「普通」ではないことによって生じる困難などの解消を目指して活動している団体
-
NPO法人マイフェイス・マイスタイル(MFMS)。
先天的や後天的な「見た目(外見)」の症状がある人たちがぶつかる困難を「見た目問題」と名付け、「見た目に関わらず、誰もが自分らしい生き方を楽しめる社会」を目指している。啓発活動やネットワークの構築、政策提言などを行い、「人生は、見た目ではなく、人と人のつながりで決まる」と伝え続けている。 - ※5『私がアルビノについて調べ考えて書いた本 当事者から始める社会学』(生活書院)
-
2013年9月に立教大学大学院社会学研究科から博士号を授与された学位論文「アルビノをめぐる政治―脱政治家の歴史から政治的主体化、あるいは政治からの離脱へ」を書籍化したもの。
2017年10月発行。 - ※6『Real Lives』
-
『Real Lives: Personal and Photographic Perspectives on Albinism』
Archie W N. Roy著。
2005年9月発行(Albinism Fellowship)。
コロナ禍でのヘアドネーション活動の変化
-
渡辺:
ここで改めて、JHD&Cが行っているヘアドネーション活動について説明します。
僕はそもそも美容師で、ヘアカラーリストです。18歳で宮崎県から大阪に出てきて、美容室で働きながら通信教育で美容師資格を取り、24歳の時に日本とニューヨークにお店を持つオーナーさんと出会いました。そして、ちょうど阪神淡路大震災が起きた1995年から1年間、ニューヨークでヘアカラーの修行をしました。
その後2008年に独立して、海外で働いた経験のある人――先ほどのオーナーとは別の人ですが――と共同経営でお店を出しました。その時、せっかくなら何か髪にまつわる新しいことをやりたいね、それならアメリカのヘアドネーション活動※7を日本でもやってみようよ、ということになり、JHD&Cが始動しました。ですから、最初は美容室の仕事の話題になればと始めたものだったんです。
団体を立ち上げた2009年当初は、ウィッグの加工に必要な髪を30kg集めるのに1年半から2年かかりました。
2011年の東日本大震災で情報の拡散・共有にSNSが有効だと注目されましたね。その普及とともにヘアドネーション活動が一気に周知されました。僕たちの活動報告は公式SNSで発信していますが、何か人の役に立つことをしなければと多くの人が思っていた状況で、伸びた髪を切って送るだけなら私にもできる、子どもにもできるという思いもあったのでしょうね。ヘアドネーションに参加した方が個人のアカウントで発信したり、メディアの取材が増えた影響もあって、今では年間10万人以上が参加するボランティア活動になりました。
ヘアドネーション活動を開始したきっかけについて語るJHD&C代表 渡辺
-
吉村:
先日調べてみたんですが、朝日・毎日・読売の大手三紙で、ヘアドネーションに関する記事は合計300件くらい(2023年8月時点)ありました。
コロナ禍で在宅ワークになって社会と接触する機会が激減し、美容院に行かなくなって髪の毛が伸び、ヘアドネーションしましたという記事も目にしました。
-
渡辺:
おっしゃるとおり、社会との接点がなくなって身だしなみを気にしなくてよくなり、美容院に行かなくなった間に伸びた髪を寄付します、という流れはありました。ドナーから寄せられるお手紙やメッセージにも、そのような記述が多かったように思います。
-
吉村:
コロナ禍を経て、JHD&Cさんの活動に何か変化はありましたか?
-
渡辺:
感染リスクを抑えるために物理的な接触をなるべくなくし、直接は顔を合わせないウィッグ提供システムにしたことが大きな変化ですね。ウィッグを申し込む人にとっても負担が減ったと思います。採寸のためとはいえ、今までは、知らない人の前でウィッグを取って頭に触れられていましたから。
現在は自宅などで自分や家族で採寸する方式をとっているので、心理的なハードルがグッと下がったと思います。
活動全般に関しては、報じられ方が多様になったというか、こちらが伝えたいことをそのまま記事にしてもらえることが以前より増えてきました。コロナ禍で社会のいろいろな価値観が大きく変わっているからだと思います。
これまで、ヘアドネーションはいわゆる「美談」として語られることが多かったんですよ。もちろん、困っている誰かのことを思って純粋な気持ちで協力してくださる方がほとんどだし、それが素晴らしいのは言うまでもないんです。が、美談として流布されるいわばファンタジーの側面と、活動の中で感じる、良くも悪くもリアルな側面がどんどん乖離していると感じます。ヘアドネーションを「いい話」として消費する人と、一歩踏み込んで当事者のことまで想像する人との二極化が進んでいる気がします。
-
吉村:
「ヘアドネーション」というキーワードで新聞などの記事を斜め読みすると、「私でも人の役に立てた」みたいな記述がちらほらありました。他にも、男の子が髪を伸ばしていて、変な目で見られることもあったけれどもがんばって寄付できたよ、とか。髪を寄付する人の動機は「私でも人の役に立てることがある」という点にあるのかなと感じました。
私の母校はキリスト教カトリックのミッション系の学校で、小さいころから隣人を愛せよと教わってきました。他者のために尽くすことに何か過剰な意味づけをするのではなく、当たり前のこととして行うという精神なんですね。困っている人がいたら助ける、それで自分がいいことをしたとは意味づけません。
キリスト教文化になじみがない日本社会においては、誰かのために何かをするのは「いいこと」的な意味づけがなされやすいのかもしれませんね。そこで達成感を得て、がんばった自分を認めるというか。夏のさなかに髪を伸ばして暑くて大変だけどがんばった、それが誰かの役に立ちますように、などの記述を見て、そんな無理してやらなくてもいいのになと思うところは正直あります。
-
渡辺:
チャリティへの参加が自己肯定感につながるのでしょうね。
自分で決めてボランティア活動に参加する、つまり志願したものに対して充足感を得ることに、本来は他者からの批判も肯定も関係ないと思うんです。
だけどSNSやメディアで誰かのヘアドネーションが賞賛されるのを見て、ああやればほめてもらえるんだって、大勢がいっせいにわーっとやっちゃうような。「何をしたらほめられるか」が目的になってしまっているのかなと感じることがあります。難しいところですね。
-
吉村:
やりたいと思って自分で行動することはいいと思うんですけど、世間で「いいこと」だと言われていることに対して自分はがんばったんだ、みたいなところばかりがクローズアップされてしまうと、ちょっと違うのかな、と私は感じます。
-
渡辺:
「髪を提供するのは本当にいいことですか?」という問題提起をJHD&Cは始めたのですが、いろいろなところに問題があると気づくようになりました。
- ※7アメリカのヘアドネーション活動
- 「Locks of Love」のこと。1997年12月、アメリカで発足した非営利のヘアドネーション団体。脱毛症、火傷、がん治療などで脱毛に苦しんでいる21歳までの子どもたち(アメリカ、カナダ在住)にウィッグを無償提供している。
レシピエントとその家族の関係性
-
吉村:
JHD&Cさんは18歳以下のお子さんをウィッグの無償提供対象にされていますが、お子さん自身がウィッグを申し込むケースはありますか?
-
渡辺:
あります、少ないですが。
JHD&Cではホームページでのみ申し込みを受け付けています。スマホやPCなど自分の通信デバイスを持っていないとアクションが起こせないから、本人による申し込みは大体高校生以上ですね。ちなみに初めてJHD&Cがウィッグを提供したのは2012年で、当時高校生だったレシピエント本人がTwitter(現・X)のDMから問い合わせてきました。
一方で、子どもに何も言わないでウィッグを申し込む親御さんも多いです。コロナ禍の前は対面で型取りをしていたので、今日何をしにそこに来たのかを当事者であるお子さんが知らされていないケースが、ままありました。
-
吉村:
ああ、なるほど。親御さんがウィッグを必要と思って申し込んで、本人に伝えないまま連れてくるんですね。
-
渡辺:
子どもをどう守るのか、その防御策の一つがウィッグだと考えれば、親御さんの気持ちは理解できます。ウィッグを申し込む選択は妥当だと思うし、子ども本人と家族の問題に僕たちが立ち入るべきではないだろうとも思いますし。どうしたらいいのかなと悩みますね。
「社会の目や常識と言われるようなものの圧力を感じます」(吉村氏)
-
吉村:
私自身の体験なのですが、7歳の時に、嫌でもかつらをかぶっていけ、暑くても我慢しろ、かつらのことは誰にも言うなと親から言われ、“かぶらされた”という意識が強かったんです。幼い自分にとって親は絶対的な存在だったから言うことを聞いてきたわけですけど、でもやっぱり、それはどうしてだったのかなという思いがありました。
ある程度成長すれば、女性ならば身だしなみに気を使ったり、おしゃれを楽しんだりするものだという文脈で理解できたので、かつらをかぶるのも”当たり前のこと”として意味づけて、内面化してきた部分がありました。
でも、私は親に対して怒っていたんです。なんでかぶらせたの、こんなのって。かつらをかぶるかかぶらないか、そこには選択の余地があっていいと思うんです。
大人になってそれを両親に尋ねたら、かつらは私を他者の視線から守るもので、私のためだったと父が言いました。でも、他の方法で守れなかったのかなと思うんですよ。
親が「守る」という時、そこには子どもが他者からどう見られるかという現実がありますけど、そういう子どもを持つ親である自分が他者からどう見られるかという現実も含まれていますよね。
髪がない子がいて、どうしてあの子の親御さんはかつらを用意してあげないのかしらとか、そういう偏った見方が世の中にあるからそのように振る舞うのだと思います。そうした、社会の目や常識と言われるものの圧力を感じます。
-
渡辺:
ウィッグをかぶらせるということは、子どもを守るためであり、親としての義務を放棄していると言われないためでもある…確かに親は親で批判されますからね。しかも今の社会では、ご近所の人や親戚、お友達など直接の知り合いからだけでなく、インターネットの世界でもすごく叩かれるので、親もそれから身を守ろうとしているのかなと、ちょっと思いました。それが、子ども本人が望む守り方かどうかは別のことですが。
-
吉村:
先ほどおっしゃった「JHD&Cとしての問題提起」、つまり渡辺さんが実践されている社会の目に対する問い直しというアプローチは、私自身すごく共感する部分が多くて勉強になります。いろいろな人たちがいて、いろいろなものの見方がある。当事者の世界だって多様ですし。
-
矢吹:
先述の『私がアルビノについて調べ考えて書いた本 当事者から始める社会学』にも書いたのですが、アルビノの子どもを育てている親が、「がんばれる人基準だと、うちの子はしんどい」と吐露したことがありました。
さまざまな困難に直面しながらもそれを乗り越えて、しかも当事者団体の活動にも尽力するような「がんばれる人」の貢献は当事者のコミュニティにとって非常に大きなものですが、かといってそれがモデルになってしまうと、他の当事者たちに高いハードルを課すことになってしまいます。
そんな自助・互助努力に励み続ける人生しかないとすれば、それはしんどいと思います。
-
渡辺:
印象に残っているレシピエントがいるんです。お母さんの手作りの帽子をかぶってやってきた小さな男の子です。その子、「僕がこれをかぶったりウィッグをつけているとママは泣かないんです、笑顔なんです」と言っていました。
子どもたちはいったい誰のためにウィッグをつけているのだろうかと思いました。夏のさなか、熱中症になる危険性をはらんで、誰のためにこのウィッグは存在しているのか。親子のことにわれわれが立ち入るべきかどうか悩み、モヤモヤすることはよくありました。
その一方、ウィッグのユーザーではあるものの、ウィッグをつけないほうが本人らしくてかっこいいと考える人もいます。
以前ある女の子が、今使っているウィッグをつけて採寸会場に来られました。採寸のためにウィッグを外してもらうと、その姿がとても素敵で、僕からするとウィッグをつけているほうに違和感があった。それで「失礼かもしれないけれど、ウィッグがないほうがおしゃれで似合っていますね」と言うと、その女の子は「やっぱりそう思いますか?」と言ったんですよ。
ウィッグに違和感を持ちながらここに来たんだなと思った瞬間、「無責任なことを言わないでほしい。渡辺さんは髪の毛があるからそんなことを言えるんです、娘の気持ちにもなってください」と、お母さんが怒り出しました。
僕は、とにかく対等な会話にしか解決方法はないと思うのです。5歳だろうが18歳だろうが、娘だろうが息子だろうが、子どもは所有物ではないし、子どもにも人権があるし、ウィッグを使いたいと思う尊厳も、ウィッグを使いたくないと思う尊厳もあるでしょう。敬意のある対話によって意思疎通しないと合意に至らないんじゃないかと考えています。
君を守るために親として何ができるか考えている。考えを聞かせてほしいと子どもに聞いてみる。そう聞かれた子どもは、別に守ってくれなんて頼んでないよと言うかもしれないですが。
でもそういうことなのだろうと思うんですよね。対話を丁寧に積み重ねていくのがいちばん大切なのかもしれないと今は思っています。
-
吉村:
大学で学生に話を聞くと、小学生からスマホを持っている子もいます。他者とか社会というものが家の中、ベッドの中、プライベートな空間にまで入ってくるような状況で、いろいろなところで人とつながっている。LINEのグループや、自分が目にする近い場所などに「なんだかあの子、ヅラっぽくない?」といった噂が溢れている日常があって、そういう日常に生きている当事者さんがいらっしゃるんだろうと思います。
私は中学生や高校生くらいの当事者さんたちと接したことがあまりないのですが、どんな言説に触れてどんな気持ちで生きているのだろうと思います。
-
渡辺:
娘が大学生なのですが、若い世代では写真を撮ってSNSに投稿してシェアするのが当たり前なようです。どうしたって人の容姿を見る機会はものすごく増えますよね。
-
吉村:
コミュニケーションの方法が文章や言葉だけでなく絵的なもので共有できる時に、その絵がシンボライズするものがすごくステレオタイプだったりすると、そこに過剰な意味が込められてしまう場合があります。
SNSで写真を投稿するのがコミュニケーションのスタンダードになると、写真を撮られたり、写真で判断されたりすることに抵抗がある人たちは、やりづらさを感じてしまいますよね。
-
渡辺:
われわれが発信するヘアドネーション活動の情報が当事者さんにも届いて、少しだけ勇気を出すきっかけになるなら、活動にも意味があると感じられるんですけどもね。
最近、目にしたのは、おしゃれとして丸坊主にしている中年の女性でした。また、3人で連れ立った女性がいて、脱毛症とおぼしき1人は帽子をかぶっただけで、ごく自然に買い物をされているんです。たまたま僕が気づいただけかもしれませんが、十数年前に比べると見かけることが多くなったと感じています。ああそうか、暑ければ別にウィッグじゃなくてもいいし、帽子で過ごしたっていいよねと。もちろん、大前提として暑いからだろうなとも思うんですけど。
ヘアドネーションという言葉が広まり、ウィッグの存在も知られるようになって、髪が抜ける症状についても、昔より知る人は増えただろうと思います。いかんせんデータを取っているわけじゃないので、本当のところはわからないんですけどね。
-
吉村:
理由はどうであれ、体を大事にしてもらいたいと思いますよ。暑くても周囲の目が気になって、かつらや帽子を外せない、外したくないという人も大勢いますから。私は今でも、人前でかつらや帽子を外すことに抵抗があります。
当事者がサバイブするということ
-
渡辺:
そもそも、なんで毛がないのとか、なんで金髪なのとか、他人が興味本位で聞くものではありませんよね。人がどんな容姿だろうがあなたに関係ありますか?と思います。聞いている人に悪気はないんでしょうが、それに対して当事者がいちいち説明しなければならないのはおかしいと思うんですよ。
以前、がんサバイバー当事者が集まるオンラインシンポジウムに招かれたことがあります。当事者の皆さんが口を揃えて「理解が進むように」「理解してもらえるように」とおっしゃるのですが、僕はそこに違和感がありました。誰だって、いつがんに罹患するかわからないですよね。がん患者さんと、がんでない人の間に上下関係はないんです。なのに、どうして当事者が必要以上にへりくだって理解を請わなければならないのかと思いました。
脱毛も同じことで、自分もいつ当事者になるかわからない。自分じゃなくても家族や親しい人が当事者になるかもしれないんだから、やっぱり差別や決めつけがない社会であるほうがいいと思います。
お笑いの世界では、いまだにハゲだのヅラだのと外見を揶揄するネタがありますが、身体的な特徴を笑いのネタにするのはもう古いと思うんですよ。
-
吉村:
笑いの観点でいうと、脱毛症の方たちでも、生きづらさへの対処法として自分の経験を自虐的に描く方もいらっしゃるんですよね。私がお話をうかがったある方は、髪がないことによって生じるつらさや、もやもやした感情や思いを「笑いに昇華させる」と表現されていました。それが自分の対処法なんだと。
私は、ハゲヅラネタは差別だとずっと言ってきました。誰かが傷ついたり、悲しんだりする言葉は差別語であり、使ってはいけないと主張してきたんですけれども、当事者の中にはサバイブするために髪がないことを笑いにする場合があるんですね。
当人はそれでいいかもしれない、生き続けられるかもしれない。でもその対処法は、髪の毛がないことをマイナスイメージのシンボルとみなす社会的価値規範を残し続けますよね。ハゲだのヅラだのと指差されたり嘲笑されたり、そういうことで当事者を傷つける社会の差別的な構造を温存させる方法なので、私はしばらく納得できなかったんですね。
今まさにつらい状況にいる、あるいはこれからつらい状況と向き合わざるを得ない方がいるわけです。そういう方たちが生き続けられる社会はどうしたら実現可能なのかと、考え続けています。
当事者の中でも、髪の毛がないことをどう認識し、どう対処するかは変化するんですね。だからこそ、当事者の多様性もすごくグラデーションに富むし、簡単には説明できません。その多様性に目配りしながら、どう発言をしていくかについては、私自身も研究しながら考えて続けています。
最近は当事者がメディアに出ることが増えてはいるものの、それでも少ないと思うんです。
渡辺さんがメディアからの取材に応じることで、ヘアドネーションに対する偏った見方を流布させてしまったのではないかと懸念されていましたが、その一方、これまで表には出づらかった当事者の存在を可視化させたことは、大きな功績だと思います。
ヘアドネーション活動が必要とされる理由を考えると、脱毛症などの病気、やけどなどの怪我で髪を持たない子どもたちがいるという現実を知ることになるわけですね。子ども食堂が注目されることで、子ども食堂を必要とする子どもたちがいることに気づくのと同じ流れですよね。
大変であると、当事者が口にしづらい現状があるんですよね。
たとえば、当事者の家族が代弁し続けることによって、当事者自身が自らの経験を口にしづらいという現象も起こりうるわけです。代弁してくれる内容が自分の考えとは違うと思っても、自分では話しづらいし、代わりに言ってもらうほうが楽だからそのままにしてしまうこともある。
だからといって、その状況を本人が納得しているわけでもなくて、話したくても話せない、声を出せない、言葉にできないことに対するつらさを抱いている人も多くいます。
ヘアドネーションが注目されることによって、ウィッグを必要とする当事者の存在がようやく社会に認知される、今はまだその段階なのでしょうね。ハゲとかヅラで稼げる芸人さんがいる現実を見れば、まだまだやっぱりその次元なんだなという気がします。
-
矢吹:
ハゲネタが差別だとなると、それをネタにしている芸人さんの職を奪うことになるじゃないか、みたいなことを言う学生も多いです。
でも、オーディエンスがそれなりのリテラシーをもって「人をあざけるような芸はよくない」と意識するようになったら、お笑いの世界も変わっていくんじゃないかと思いますね。
現状の課題と今後の展望
-
渡辺:
JHD&CはホームページとSNSを用いて活動を周知しているんですが、インターネットの性質上、ウィッグを必要とする当事者にJHD&Cを見つけてもらわないといけないんです。いくら発信しても存在が知られなければ届かないので、難しい課題です。
ウィッグの無償提供はもちろん、これまで話してきたような社会に対する発信を、一人で泣いているお母さんにどうやったら見つけてもらえるか、子どもに黙ってウィッグを作ってしまうご家族にどうすれば伝わるだろうかと、ずっと苦心しています。
-
吉村:
JHD&Cさんは18歳以下の子どもをウィッグの提供対象にしているので、当事者は若年層、特に未成年ですよね。つまり、保護者が必ずついてきます。家族問題を避けては通れないんですね。
髪の毛や体毛がないことによって生じる問題に、日々直面し、対処を迫られているのは当事者ですが、一緒に暮らす家族も、子どもがどのように見られるかと常に気を張っていたり、学校でいじめられていないかと思い悩んだりして、いろいろな負担があると思うんですよね。
そうした負担を当事者の子どもだけでなく家族も一緒に経験している。大きなくくりで家族も問題の当事者であるととらえると、当事者問題をどう解決できるのかは、やはり根深い課題であると感じます。
-
渡辺:
僕は、ASPJ※8さんが希望の光だと思っています。当事者が自らどんどん前に出る団体は、現状ではASPJさんしかいません。代表の方は以前JHD&Cの事務局に来てくださってお話もしていますし、われわれはゆるくつながっています。ASPJさんの活動を注視しつつ、できるだけ協力したいと思います。
われわれは当事者団体ではないので、どう関わろうか思案中ですが、声を上げられないなかで声を上げている数少ない方たちなので、がんばってほしいなという思いです。
ASPJさんが企画して、都内でヘアロス啓発のパレードもされているんですよ。
-
吉村:
素晴らしいと思います。9月はヘアロスの啓発月なんですね。いろいろなプレッシャーはあるかもしれませんが、当事者がまとまってパレードの予算を工面できるのは、すごく大きなことじゃないでしょうか。当事者が声をあげることには、すごく意味があると思います。
以前、論文でも触れたことがあるのですが、当事者の認識に発症年齢が及ぼす影響はすごく大きいんですよ。大人になってから発症した人たちは、脱毛を「病気」と意味づけ、髪がない状態を「普通ではない」と認識しています。これは社会の「常識」ですよね。
ASPJに参加される当事者さんは、先天性や幼少発症の方が多いのかなと想像するんですけど、幼いころに発症した人たちは、髪の毛がないのが「普通」なんですよね。髪がない状態が自分にとっては自然なのに、髪がないことでなんでこんなにがんばらないといけないのか、対処しなければならないのか。がんばらなくていいんじゃないかというところに問題意識を持っていきやすいのかなと思います。
私自身もここ数年、ユニークフェイスや見た目問題、ルッキズム※9に関することを大学で教えるようになりました。最初に帽子をかぶって教室に入り、授業中に帽子を脱ぐと学生はやっぱりびっくりするんですね。無関心を装って視線を合わせない子もいますが、どうして視線を外したかちょっと振り返って考えてほしいということも伝えます。
大学では教員と学生という立場性があって、権力関係があるから私の話を一生懸命聞いてくれているのかもしれないのですが、日々自分の何気ない振る舞いや言葉、言動の中に、悪気はなくとも誰かを傷つけてしまう可能性があることに気づいてくれる学生も一定数います。
私も正直言って、当事者としての自分の経験を話すのは面倒ですし、脱毛のことを知らないなら調べてから聞きに来てくださいと言いたくなりますし、誤解しているような人とは話したくないなと思います。
女性に髪の毛がないことはタブー視されやすいので、本人もあえて言わないし、言わないほうが楽だ、そのほうが傷つかないと思う人はごまんといます。でも信頼関係を築きながら、対話を重ね、言葉を紡いでいくと、これまで知らなかった経験や言葉と出会うことがあるんですね。そうした機会が剥奪されすぎていると思います。
-
渡辺:
JHD&Cとしては、ウィッグをつけて多数派に擬態しなければ生活が困難な現状は喜ばしいことなんでしょうか、という問題提起を講演などでお話しすることが多いんですが、伝えるべきこと、知ってもらわないといけないことがたくさんあるなあと思いながら、どんなふうに何を発信するかを模索しています。
「私が髪の毛をあげたら、髪がないかわいそうな子どもは笑顔になるだろう」という無邪気な思い込みでヘアドネーションに参加することが、結果的に当事者を傷つけているのではないかと。人権や尊厳につながる話で非常に難しいのですが、レイヤーのように存在している問題を一つ一つ丁寧にほどいて、ヘアドネーション活動の本質を知ってほしいと思います。一人の意識が変わることで世の中は変わると信じているんです。
-
吉村:
本当に一人一人に、どんな社会だったらいいと思いますかと聞いてみたいですね。
-
渡辺:
これまで言い続けていることですが、ウィッグが選択肢のひとつになって、JHD&Cのようなヘアドネーション活動が必要とされない社会に変わってほしいと強く願います。
社会の構造とか、世の中の価値観とか、差別意識やジェンダー問題など、いろいろなものが関わっているので簡単な道のりではありませんが、100人いれば1人くらいは本質に気づいてくれる方がいるかもしれないので、僕はこれからもなるべく手を抜かずに丁寧に対話を続けていこうと思います。
吉村さん、矢吹さん、お二人とは引き続きこのような機会をもち、当事者と周囲の人との認識の差を埋めていけるような、そんな議論を深めていけたらうれしいです。
今日は貴重なお話を本当にありがとうございました。
- ※8ASPJ
-
Alopecia Style Project Japan(アルペシア スタイル プロジェクト ジャパン)のこと。略称ASPJ。
『当事者+社会+医療と日常と社会をつなぐ架け橋になること』を活動目的に、脱毛症、抜毛症、乏毛症、無毛症、治療による副作用など、さまざまな理由により髪に症状を持つ人のコミュニティを運営するNPO法人。 - ※9ユニークフェイスや見た目問題、ルッキズム
-
ユニークフェイス……本来は当事者団体の名称であった(1999年設立、2002年NPO法人格取得、2015年解散)。団体の活動が知られるようになり、病気やけがなどによって変形したり、大きなあざや傷のある顔を持つ当事者のことを「ユニークフェイスな人」と表現することがある。
- 見た目問題……生まれつきのあざや、事故や病気による傷、やけど、脱毛など、外見に症状のある人たちが「見た目」を理由とする差別や偏見のせいで直面する問題のこと。
-
ルッキズム……「look(外見、容姿)+ism(主義)」、外見至上主義。
容貌や容姿を理由に差別的な扱いをすること。
学校や職場などの人間関係において、美しさや格好良さが強い影響力を持ち、見た目が魅力的な人ほど優遇されるような状況や考え方。
- この記事をシェアする